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和楽器の歴史

和楽器(わがっき)とは、日本で、古来使われてきた伝統的な楽器のことです。邦楽器とも呼びます。
大陸文化の影響を受ける以前から伝承される日本固有の楽器としては、和琴(わごん)があげられます。神楽笛(かぐらぶえ)、笏拍子(しゃくびょうし)も日本固有のものと見なされています。。そのほかの和楽器のほとんどは、大陸から渡来した楽器を基としているが、日本の文化や美意識のなかでそのかたちを変え、独自に完成されていきました。「雅楽の琵琶」 (楽琵琶) のように、大陸では失われてしまった古い姿を残している楽器も多いが、三味線、尺八、能管、小鼓・大鼓のように独特な進化を遂げたものもあります。

琴の歴史

今からおよそ1300年前の奈良時代。中国大陸伝来の「コト」はそれより前の弥生時代に生み出されたとされる日本古来の「こと」と融合し、音楽を愛する人々の手を経ながら次第に洗練されていきました。
幾多の時代をくぐり抜け、奏でられてきたのは、多くの人々を魅了するものがあったから。
それはいつの時代にも人々の心を癒し、静かに勇気づけてきた「調べ」にあります。
現在、様々なモノに囲まれ、慌しい日々を送る私たち。悠久の「音色」に耳を澄ませることで、心と身体を流れる遠い記憶が蘇ります。

三味線の歴史

永禄年間、泉州堺の商人が琉球から持 ち帰った蛇味線を元に、琵琶の奏者や職 人により改良され作られた・・・と言うのが 通説です。その他、文禄年間、石村検校 が琉球から胡弓を持ち帰り、これを改良 して三味線を作りだした。
あるいは、京都の琵琶の職人が蛇味線 をもとに、三味線を作り出し、後に盲目と なり石村検校を名乗った。など諸説色々
あります。三味線の製作に、当時の琵琶 の奏者や職人が携わったのは確かでしょ う。 琵琶の特徴である「さわり」が、三味 線にも施されています。
また、撥の形も琵琶のものから改良され たものでしょう。
桃山時代に誕生した三味線は、その後江戸時代に庶民の楽器として様々な文化 を生み出します。三味線伴奏で語る浄瑠璃の中では、義太夫・常磐津・清元・河 東節一中節など、座敷芸や歌舞伎音楽である長唄・箏曲と結びついた地唄等と、少しずつ色合いを変え発展しました。

尺八の歴史

鎌倉時代中期、禅僧・覚心(法灯国師)が宋に留学した際、中国の張参より尺八曲「虚霊」(虚鈴)を学び建長六年(1254)に帰朝した。覚心は後に和歌山県の興国寺の住職となり、ここが普化尺八の大本山となった。覚心の門弟・寄竹(後の虚竹)と僧・法伏とその門弟の金先は尺八を携え各地を行脚した。寄竹は関西各地を廻り京都に「明暗寺」を建てた。法伏と金先は関東を廻ったが、法伏は下総(千葉県)の小金で亡くなり金先は小金に「一月寺」を建て、自らは青梅に「鈴法寺」を建てた。
よって「明暗寺」を関西の普化尺八の本山とし、「一月寺」と「鈴法寺」を関東の普化尺八の本山となった。そして室町時代を通してその門をくぐる者も増え、各地に普及した。江戸時代にはいると浪人もこれに入る者も多く幕府も浪人の統制上これらを保護する事とし、尺八を法器として虚無僧の専用とし、一般庶民の使用を禁止した。かくして現代の尺八は完成したが、寛文延宝(1661〜1680)の頃だった。
その後「一月寺」と「鈴法寺」は交通不便の理由から江戸・浅草に一月鈴法両寺の寺務所を設けることとなった。十八世紀の中頃、元福岡藩の浪士、黒沢幸八は尺八の名手といわれ、数々の作曲を加え「琴古流」を創流した。
明治四年(1871)、普化宗が明治政府により廃止され、尺八は法器から純然と楽器として庶民にも広まることになった。
大阪府・河内の中尾都山は明治二十九年(1896)、大阪で稽古所を開設し、「都山流」を創流した。現在尺八は「明暗」「琴古流」「都山流」の三流から派生され多くの派に分かれ、民謡尺八も加わり現在に至る。

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